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信玄公と昌景

武田信玄公と山縣昌景公

武田二十四将の中でも四天王と数えられ信玄・勝頼の二代に仕えた昌景は合戦・戦略・外交・治安・内政などにわたり重臣として活躍した

1565年(永禄8年)昌景の兄虎昌が逆心の咎により成敗される事件が起こった

『甲陽軍鑑』によると昌景は虎昌と信玄公の長子義信の間に謀反の謀議があるのを察知し「いかに兄といえども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と信玄に訴え出たという

信玄は臨終の際その枕元に昌景をよび後事を託すと「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命したことが『甲陽軍鑑』にある
その真偽は別にしても昌景のおかれていた地位を物語っている

対幅
山県家に伝わる武田信玄公(右)山県昌景公(左)の対幅(二軸一対の書画)
江戸時代 狩野派の絵師 竹翁養渓による作
信玄公亡き後の昌景公

信玄の死後も昌景は武田家の重臣として活躍した
1573年(元亀4年)信玄没後218日の日付に昌景の名で出された朱印状が残されている

信玄の死は外交上秘匿されていたが信玄と関わりの深い寺院には知らされ
2年後の1575年(天正3年)3月6日には高野山における武田氏の菩提所・宿坊であった成慶院(現 櫻池院・成慶院/和歌山県)へ昌景が信玄の位牌を納めた記録が残る

その後まもなく昌景は三河に出陣
高野山参詣から約2か月後の5月21日長篠の戦いで討ち死にを遂げた

長篠の戦いから1年足らず1576年(天正4年)4月に武田氏は恵林寺で信玄の葬儀を行った
信玄の命じた通り死後3年にして武田家は信玄の死を正式に公表したのである