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山縣三郎右兵衛尉昌景

山縣昌景
赤備えを受け継ぐ前の姿を描いた
後世の肖像画
山縣やまがた三郎さぶろう兵衛尉ひょうえのじょう昌景まさかげ

武田二十四将の中でも四天王と数えられ信玄・勝頼の二代に仕えた名将で合戦・戦略・外交・治安・内政などにわたり重臣として活躍した

飯富兵部少輔虎昌の弟といわれるが諸説ある
はじめ飯富源四郎と名乗るが1552年(天文21年)には侍大将となり1563年(永禄6年)に三郎右兵衛尉と改めた

山縣姓を名乗ったのは1565年(永禄8年)のことである
兄の虎昌が逆心の咎により成敗される事件が起こった

『甲陽軍鑑』によると昌景は兄と信玄が長子義信の間に謀反の謀議があるのを察知し「いかに兄といえども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と信玄に訴え出たという

人物像

昌景(源四郎)が物心つく以前から既に猛将の名を馳せていた兄(叔父)飯富虎昌と比較すると体格も優れずむしろ小柄であり風貌も冴えなかったと伝えられています

しかしながら幕末に編纂されたとされる「校合雑記」には

袴腰と頭との間、僅か四、五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。
信玄家臣の中でも股肱の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也
※股肱(ここう)…自分の手足のように信頼している忠義な家来のこと(腹心之臣)

と記され小柄とは思えない程の気迫と威厳を持った人物と伝えられていたことがわかります

ほかに昌景の人物像を伝えるエピソードとして江戸初期の兵法家で甲州流軍学を学んだ小早川能久(毛利元就の九男で小早川家の養子となった秀包の三男)が「翁物語」にこう記しています

信玄の異母弟で昌景と同じく武田二十四将のひとりにも数えられる一条信龍が、ある日昌景に対し「山県隊はなぜそんなに強いのか?」とたずねると、昌景はこう答えたと言う。
「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」

昌景は猪突猛進型の猛将ではありませんが時には旗本隊として守りに徹しひとたび戦となれば地形を調べ慎重に策を練り先鋒に任ぜられれば先頭に立って勇敢に兵を率いる万能型の武将であったことがうかがえます

昌景の子供達

昌景には養子を含めると10人もの子があったとされています
武田家の滅亡に伴い多くは名を変え散り散りになるなどしてその全容は不明ですが江戸期~現代にいたるまで名将の血はその子孫に脈々と受け継がれています

山縣昌満
源四郎将監
長篠の戦いで討死した昌景を継いで武田家に仕え駿河田中城代となる
織田信長の甲州征伐により捕えられ処刑される
山縣昌久
長篠の戦いの後は母方の実家の尾張に移り上村源四郎と称する
源四郎の子の笹治大膳こと上村昌時(笹治正時)は家康の二男である北ノ荘藩(後の福井藩)初代藩主結城(松平)秀康に仕え家老として3600石を領する 笹治大膳家の祖
子孫は福井藩の家老職家として最大時で1万石を与えられ笹治姓を称し十代後に山県に復姓
山縣昌重
三郎右衛門 塙直之(団右衛門)の附家老 大坂夏の陣で討死
昌景江尻城主時代の子とも伝えられている
山縣信継
三郎兵衛 のちに徳川家康に仕え川浦村に500石を賜り川浦口留守番を命ぜられる
子孫は川浦温泉の一軒宿「山県館」を経営
娘 三枝昌貞正室
山縣昌景を寄親とし同じく武田二十四将に数えられる三枝昌貞は昌景の娘を正室に迎え
婿養子として「山県勘解由左衛門尉」を名乗ったとも伝えられている
長篠の戦いで昌貞が討死すると嫡男の守吉が幼少であったため叔父にあたる三枝昌吉が名代を務め
後に徳川氏に仕えると守吉は分家を興しその子孫が近江国で旗本となっている(守吉系の子孫は明治期に断絶)
娘 相木昌朝室
昌景の相備衆(同部隊)となった信濃先方衆相木常林の嫡男昌朝(市兵衛)に嫁ぐ
武田氏滅亡後は北条氏に属するが徳川家康と抗争し没落
娘 横田尹松室
昌景と同じく武田二十四将に数えられる原虎胤の孫にあたる横田尹松に嫁ぐ
武田氏滅亡後の横田氏は徳川家に仕え江戸幕府開幕後は旗本として5000石を領した
山縣昌次(養子)
甚太郎 昌景の死後に自害
山縣定昌(養子)
源八郎 武田氏家臣である萩原豊前の子 後に上杉景勝の家臣となったとも伝えられる
山縣太郎右衛門(養子)
野沢豊後の子 四代後は江戸中期の学者である山県大弐(山縣大貳)