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家康が唯一恐れた武将

最強武田の赤備え 山縣隊

織田・徳川連合軍との三方ケ原の合戦では「武田の赤備え」と呼ばれた最強部隊を率いて徳川家康の本陣に迫った

家康は死力を尽くして抗戦するが昌景の主力に追撃され一時は自決の覚悟を決めたほどであった
しかし本多・大久保らの直臣に諌められ家康は這う這うの体で浜松城へ逃げ込んだのである

家康が「さても山縣という者 おそろしき武将ぞ」と驚嘆した話が『三河物語』にある

後年武田家滅亡後に家康は山縣隊の旧臣たちを彦根井伊家へそっくり仕官させ“武田の赤備え”を再興させている
また本多忠勝の子信勝の幼名を家康は山縣と称させたほど家康の脳裡には猛将昌景の印象が強烈に焼き付いていた

三方ヶ原の戦い
「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖(歌川芳虎 作)」
三方ヶ原の戦いを描いた明治期の錦絵 左が徳川軍・中心に先鋒を務める昌景・右に武田軍が続く

家康の故郷岡崎城(岡崎公園)にある通称「しかみ像」を基に作られた石造

「徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)」は正確には後の長篠の戦い後に描かれた「長篠戦役図」とされているが
後世「家康が三方ヶ原の敗戦を忘れぬよう描かせた」との口伝が広く伝わっている

しかみ像