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名将と赤揃え昌景の戦い

赤揃え山縣昌景は最強武将
強豪武将に昌景は立ち向い全て勝利
北条氏照・氏邦と山縣三郎右兵衛尉昌景

1569年(永禄12年)小田原城攻めを断念し帰還しようとする武田軍を要所である三増峠にて奇襲すべく北条軍は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照と秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢約2万を着陣し武田軍と衝突
はじめは北条有利に運ぶも三増峠より高所の志田峠に機動した山縣隊が一気に山を降り北条軍を横から攻めると形成は逆転
戦国最大規模の山岳戦となり互いに有力武将を失う激戦ではあったものの結果は武田軍の勝利となった

上杉謙信と山縣三郎右兵衛尉昌景

武田・上杉が幾度となく睨み合いとなった川中島で唯一激しい戦闘が行われた第四次合戦(1561年/永禄4年)

武田軍は半数以上を別働隊として上杉謙信のいる妻女山に送り込んだが裏をかいた上杉軍の奇襲により武田軍本隊は追い込まれ武田信繁や山本勘助など重臣が討死する激戦となった
旗本本隊が壊滅寸前まで追い込まれる厳しい状況の中で昌景は本陣の要として命を賭して信玄を守りぬいた

徳川家康と山縣三郎右兵衛尉昌景

1573年1月25日(元亀3年12月22日)に現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺で行われた戦い
信長包囲網に参加すべく上洛する途中であった武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが結果は武田軍の大勝となった

武田軍の先鋒を務めた山縣隊の猛攻は特にすさまじく家康は恐れ慄き「さても恐ろしきは山縣」と震え上がったという逸話が残されている(三河物語)

三方ヶ原から敗走した家康は僅かな兵を引き連れ命からがら浜松城に逃げ込むが昌景らもそれを追って城まで到達した
しかし家康はわざと浜松城の城門を開きかがり火焚かせる所謂「空城の計(城内に罠があると見せかける兵法の一種)」をとったため昌景は無用に城に攻め入ることなく兵を引き家康は難を逃れたとされる
これらは主要な武将らが兵法に通じ高度な心理戦を行っていたことを伺わせるエピソードとして伝わっている

織田信長と山縣三郎右兵衛尉昌景

1574年(天正2年)信玄の意思を継いだ勝頼と共に昌景らは甲斐・信濃1万5千の大軍を率いて東美濃侵攻の拠点である明知城を襲撃

援軍に駆け付けた織田信長本隊3万の兵に対し昌景は地の利を活かし僅か6千の兵で撃退
信長軍を4里退かせ信長の周囲を固めていた16騎のうち9騎を討ち取り7騎が敗走した
信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったと伝わる