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武田軍四強大将 最後の水盃

これぞ武田軍四強大将 最後の水盃

五月十九日医王寺山本陣で軍議を終えた諸将は、それぞれの自分の陣地へ戻った。 馬場信房(信春)は、決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自分の陣所である大通寺山に同道して、まずはこの日の軍議を嘆き、このような事態になった上は、明日の戦いは一命を賭して戦うだけである。共に信玄公に引き立てられ、勝頼公の今に至るまで戦場を疾駆したことは数えきれないが、幸い今日まで命を永らえた。けれども、明日の一戦は最期となろう。とお互いに旧友を謝し、明日の奮戦を誓い、今生の別れとして泉の水を馬柄杓で汲み寄せ、腰に挟んだ水呑を以てこれを飲んだ。

大通寺「大通禅寺杯井」説明板より

盃井戸
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武田軍四強大将の最期
赤備えちゃん

山縣昌景

武田軍左翼の中核を担い約300騎を率いて先鋒をつとめ大久保氏率いる徳川鉄砲隊めがけ突撃を繰り返した
両腕に銃弾を受け手が使えなくなっても采配を咥えて兵達を指揮したと伝えられ屏風図には采配を咥えたままの首級を抱える志村又右衛門(光家)が描かれている
享年47歳

武将ちゃん

馬場信春(信房)

武田軍右翼の中核に布陣し馬場隊兵700人に対し織田方主力の佐久間信盛隊6000人と対峙
信春は隊を二手に分け佐久間隊に猛攻を仕掛けるが数に劣るため長くは続かず次第に劣勢に
武田軍退却時は内藤昌秀と共に生き残った兵を率い勝頼の退路を守った
その後追撃する織田軍に立ち向かい討死したとも首を差し出したとも伝えられており織田家家臣塙(原田)直政の家来河井三十郎が討ち取ったとされる
「信長公記」には「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されている
享年61歳

武将ちゃん

内藤昌豊

「甲陽軍鑑」によれば織田本隊と戦ったとされ「本多家武功聞書」によれば徳川四天王のひとり本多忠勝と一戦を交えたとされているが詳細は不明
武田軍の退却がはじまると昌豊は馬場信春と共に勝頼を戦場から逃すために踏みとどまり徳川軍の朝比奈泰勝により討ち取られたとされる
享年54歳

武将ちゃん

土屋昌続(昌次)

武田軍の中核に布陣し織田軍・豊臣軍めがけ突撃
敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け討死したと伝えられる
設楽原には墓の他に馬防柵側に戦死の地碑が残っておりまさに敵陣に突撃した様が見て取れる
享年30歳と推測される


武田軍四強大将 墓の位置
四大将墓所図