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昌景の生い立ち

1529年(享禄2年)~
武田家の譜代家老飯富虎昌の弟として産まれる(年齢差などから甥である説も有力)
昌景誕生以前から兄(叔父)である虎昌は既に赤備え部隊を率い数々の武勲を立てていた

飯富源四郎を名乗り武田晴信(信玄)の近習として出仕
後に使番を経て将来の幹部候補としての経験を積んでいく
1541年(天文10年)
武田晴信(信玄)が父である武田信虎を駿河へ追放し武田家の第19代目当主となる
これには重臣である板垣信方や甘利虎泰のほかに昌景の兄である飯富虎昌も直接関与していたとされる
1542年(天文11年)
信濃侵攻における伊奈攻めにて初陣を果たす
1552年(天文21年)~
昌景(源四郎)は信濃侵攻における神之峰城攻めにおける一番乗りの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢
虎昌に勝るとも劣らない戦いぶりを見せ「源四郎の赴くところ敵なし」と称される
1563年(永禄6年)
昌景(源四郎)は飯富三郎兵衛尉と名乗り譜代家老衆に列せられ300騎持の大将となる
1565年(永禄8年)
昌景(三郎兵衛尉)は信玄の嫡男・武田義信ら謀反の企てを知り
側近である虎昌も関与していることを承知の上で晴信(信玄)に伝えたとされる
武田義信・虎昌を含む謀反に関わる者達は粛清された

昌景(三郎兵衛尉)は虎昌の赤備え部隊を引き継ぎ
武田信虎の頃既に断絶していた山縣氏の姓を与えられ「山縣昌景」と名を改めることとなる

その後も数々の戦いで目覚ましい戦果を上げる一方で晴信(信玄)の側近として諸役免許や参陣命令など内政・外交で重要な役割を務める
1569年(永禄12年)
対三河の最前線である駿河江尻城代に任じられる
1572年(元亀3年)
三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生
山縣勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話が残されている(甲陽軍鑑)
1573年(元亀4年)
武田信玄死去
信玄は「わしの死を3年間秘せ そして勝頼を補佐してくれ」「明日は瀬田(※)に旗を立てよ」と遺命を託し(甲陽軍鑑)昌景は嫡子勝頼を補佐することとなったが勝頼との折り合いは悪かったとされる
※ここで言う瀬田とは滋賀県の琵琶湖南部のことで
 瀬田川に架かる唐橋は古来から京の入口として数々の戦乱の舞台となった
1575年(天正3年)
長篠の戦いで昌景は他の重臣らと撤退を進言したが勝頼と側近らは決戦を決断
山縣隊は張り巡らされた馬防柵とその後ろに構える織田・徳川連合軍に突撃し討死
享年47歳と伝えられている

勝頼に撤退を進言した際に勝頼から「この期に及んでまだ命を惜しむのか」と言われたとされる説や突撃の際に鉄砲に打たれて両腕の自由が効かなくなリ口に采配を咥えて指揮をとったとの伝説が残されている

長篠合戦図屏風
「長篠合戦図屏風(抜粋)」大久保氏率いる徳川鉄砲隊に突撃する山縣隊(桔梗紋の旗印)が描かれている

陣旗
旗印(再現図)