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武将魂の最期

信玄亡きあと勝頼の代となり1574年(天正2年)に昌景は明知城の戦いで三万の軍勢を率いた織田信長をわずか六千の山縣隊で敗走させ十六騎いた信長の馬回り九騎までを討ち取り信長をさえ瀬戸際まで追い詰めたと『明知年譜』にある

しかし翌1575年(天正3年)の長篠の合戦で昌景は味方の不利を勝頼に説いたが聞き入れられず合戦に突入 武田軍の劣勢を挽回しようと敵陣に突入した昌景は全身に数弾受けたが馬から落ちずに采配を咥えたまま絶命した

のちに『勇士物語 一言集』によると昌景を狙撃したのは鉄砲の名手と言われた大坂新助という人であったという

長篠合戦図屏風(勢力図)
「長篠合戦図屏風」における勢力図(点線枠内解説は下記)

昌景公最後の戦い

昌景公含め四人の大将がこの戦を避けるべきと進言したものの聞き入れてもらえず勝頼公は多くの鉄砲が構える中を突撃命令を降した 昌景公は間違いなく明日戦死することが分かった今最後の日を向える前日何を考えたでしょうか?お館様信玄公に仕え数々の戦いの思い出を振り返ったでしょう家族の事共に戦ってくれた大切な武将達のこと自分がお館様なら絶対ここは戦いを避け 別の日に体制を整え戦うことなど一睡も出来なかったのでは?信玄公が亡くなる前枕元に昌景公だけを呼び武田軍と勝頼を頼むと言われた言葉を噛み締めたはず
織田・徳川連合軍多くの武士が体制を整える中で敢えて前列では最強の敵家康軍の正面に昌景公は陣を整えた武田軍最強赤揃えの昌景軍は先陣を任され鉄砲隊が構える中 昌景公は最初に突撃し9回に渡り攻めそして引きを繰り返し9回目に鉄砲の弾が「こめかみ」に当たり瀕死の重傷にもかかわらず自軍までたどり着き山縣軍武将志村又右衛門に後のことを言い残し首を刎ねてもらう 首は志村又右衛門が甲府まで持ち帰った?胴体は首を刎ねた場所に埋め後に敵軍に掘り起こされ信長達が確認ただ首が無いゆえこれが昌景公で有ろうとで終わっています

騎馬軍対鉄砲軍・・・武田軍は鉄砲隊が三重に?整っている相手に良くぞ戦い抜いたと思いませんかこの戦いで(長篠城・設楽原)武田軍約1万人織田・徳川連合軍約6000人が戦死 壮絶な戦いでした亡くなった武 将 は設楽原で武田軍と連合軍別々の共同墓地に永眠致しております 昌景公と息子たちと親族武将のお墓は昌景陣跡に有ります 誇りある武将昌景公

椚 孝信 

長篠合戦図屏風(解説)
「長篠合戦図屏風(抜粋)」

現在の写真で見る決戦地

昌景公率いる山縣軍は武田軍左翼に布陣し西側の徳川軍との間は約200m
山縣軍は徳川軍より高台に展開し敵陣をよく見渡すことができたが
前日までの雨により川周囲が沼地となっており馬が足を取られ苦戦を強いられた

地図で見る決戦地

昌景公は徳川家康本陣に向かって何度も突撃を繰り返し9度目で鉄砲に撃たれた

01
↑山県塚(山縣軍陣地)から西方を望む

当時の両軍陣地は木々が無く草の丘
山縣軍側の方が小高い丘で見通しが良い

02
↑山縣軍陣地西寄りにある昌景公達のお墓
03
↑赤丸の白い立札辺りで鉄砲弾を受けた
06
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↑黒畑阿弥陀堂

ここで昌景公は首を刎ねて貰い胴体は現在の阿弥陀堂下部に埋められた
後に勝楽寺(松楽寺)三世玄賀和尚により両軍の戦死者を弔うために阿弥陀堂が建てられ
毎年昌景公命日に勝楽寺住職による法要が行われている

「山形」地名の由来
↑昌景公のお墓付近の地名は「山形(縣)」
04
↑地元農民らは近くの山頂付近で
    合戦の行方を見守っていた