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昌景と飯富兵部少輔虎昌

山縣やまがた三郎さぶろうう兵衛尉ひょうえのじょう昌景まさかげ 飯富おぶ兵部少輔ひょうぶしょうゆう虎昌とらまさ
飯富虎昌

甲斐源氏の一族である飯富氏は本来「飫富」と書き平安時代末期に源季貞が本拠地飯富庄(現在の千葉県袖ケ浦市)の「飯富」姓を名乗ったのがはじまりとされています
飯富兵部少輔虎昌は源義家の四男であった源義忠の三男飯富忠宗の末裔と言われ 生年は1504年(永正元年)頃とされていますが諸説あり
出身地は飯富村(現在の山梨県身延町飯富)と伝わります

当初の虎昌は甲斐国内で一定の領地を支配する国人領主でしたが他領主と共に武田信虎に反旗を翻したものの敗れ信虎に臣従することに
その後は数々の軍功を挙げ武田軍にとって欠かせない戦力となっていきました
1541年(天文10年)信虎の嫡男であった晴信(後の信玄)公を擁立し信虎を駿河に追放
この功績により晴信の信任を得て1548年(天文17年)に重臣であった板垣信方と甘利虎泰が上田原の戦いで戦死すると武田軍の中核として晴信を支えて行くこととなりました

信玄公の嫡男である義信の傅役(後見人)を務めていましたが今川氏との関係悪化に伴い信玄公と義信の関係が悪化すると虎昌は親今川派として義信を担いで謀反を企んだとして捕えられ1565年(永禄8年)に責任を取るかたちで自害(享年62歳)
亡骸は飯富家の菩提寺であった天澤寺(山梨県甲斐市)に葬られ断絶した飯富家の家臣団は山縣と改名した弟昌景(甥説あり当時は三郎兵衛)が引き継ぎました
※昌景は兄(叔父)の謀反を晴信に進言したと伝えられていますが虎昌が謀反の計画をわざと昌景(三郎兵衛)に伝わるよう画策したという説もあります


山縣昌景

山縣昌景は飯富虎昌の弟(または甥)として産まれ早くから武田晴信(後の信玄)公に出仕
晴信公の身の回りの世話からはじまり足軽大将に抜擢されると戦場でも活躍の場を広げていきました

兄虎昌が義信の謀反に加担していると知ると「いかに兄といえども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と信玄公に密告
虎昌が一連の責任を取り自害に追い込まれると飯富家は没落
昌景は飯富姓を捨て武田信虎時代に途絶えていた山縣の姓を晴信公から賜ると虎昌の赤備え家臣団を引き継ぎます

その後も数々の武勲を立て駿河や三河への侵攻など数多くの戦に参戦
徳川家康をはじめ多くの武将から「武田(山縣)の赤備え」と恐れられる存在になりました
後世には「武田四天王」のひとりと位置付けられています

信玄公臨終の際には昌景を呼び寄せ跡取りである勝頼の補佐や「瀬田(京都への入口)に旗を立てよ」と更なる進軍を遺言として託されました

1575年(天正3年)長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に対して不利な状況を他重臣団とともに勝頼に訴えますが撤退の進言は聞き入れられず無念の突撃の末討死
設楽原の合戦場跡に胴体を葬ったとされる「山県塚」が残され飯富家と山縣家の菩提寺である天澤寺にも墓碑が建てられています