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時系列で検証する長篠・設楽原の戦い

元資料:設楽原ボランティアガイドの会「長篠・設楽原の戦いを時系列で検証する」

I 戦いの序章
1573年(天正元年)
8月
情勢により所属を変えていた地方豪族 作手の奥平氏・長篠の菅沼氏・田峰の菅沼氏からなる「山家(やまが)三方衆」は1571年(元亀2年)武田軍による三河侵攻で徳川方から離反し武田方に属して各地を転戦していたが奥平信昌は当時隠匿されていた信玄の死を察し再び徳川方に寝返る
武田軍不在の間に長篠城に徳川家康が侵攻
城主菅沼正貞は開城退去し北へ逃れ武田軍と落ち合うも内通を咎められ捕らえられる
武田軍の再侵攻に備え家康の指示により長篠城が拡張される
9月21日
武田勝頼は長篠城を家康に奪われたことや奥平親子に背かれたことを理由に菅沼正貞の弟である仙千代(14歳)・虎之介(16歳)・於ふう(16歳)3人の人質を鳳来寺山(愛知県新城市)の参道門前で処刑した
1576年(天正3年)
4月12日~16日
勝頼は父武田信玄の葬儀と三回忌法要を済ませ甲斐の躑躅ヶ埼館から1万5千の兵を率い三河長篠に向けて出陣
4月末
武田軍は奥平信昌が5百の兵で守る長篠城を包囲
監視の拠点として長篠城南岸に鳶ヶ巣山砦と4つの支砦(中山砦・久間山砦・君が臥床砦・姥ヶ懐砦)を築く
5月13日
徳川家康から再三の援軍要請を受けた織田信長は岐阜城から3万の兵を率い出発
翌日には家康のいる岡崎城に到着
5月14日
武田軍は長篠城南側の野牛門を猛攻し食糧庫を破壊
西寄りの弾正曲輪(だんじょうぐるわ)も落とし長篠城は籠城戦が不可能となった
奥平信昌は岡崎城へ落城寸前を告げる使者を募り鳥居強右衛門(すねえもん)と鈴木金七郎の2名が名乗り出た
5月14日 夜
強右衛門と金七郎は夜陰に乗じ野牛曲輪の不浄口(下水溝)からそれぞれ城を出ると豊川を泳いで下り川路の広瀬で上陸
5月15日 朝
強右衛門と金七郎は雁峰山(がんぼうさん)で脱出成功の狼煙(のろし)をあげ岡崎城の家康に伝令を伝えた
織田軍の援軍も既に岡崎城に到着しており徳川軍合わせて3万8千の連合軍が翌日にも長篠城へ向けて出発する手筈であることを喜んだ強右衛門は朗報を味方に伝えるためすぐに長篠城に向けて引き返した
5月16日 早朝
強右衛門は雁峰山で再び狼煙をあげさらに詳細を伝えるべく入城を試みたところを武田軍の兵に見つかり捕らえられてしまう
5月16日
武田軍に捕らえられ磔にされた強右衛門は勝頼から長篠城へ向け「援軍は来ない」と告げれば助命し武田家家臣として厚遇するとの条件を提示されていたがそれを拒否「あと二~三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえよ」と叫び籠城を続ける同志を鼓舞した
忠義に厚い強右衛門に同情し助命を願う武田家家臣もいたが激怒した勝頼は即刻強右衛門の処刑を命じた
(強右衛門の死を知った家康は憤り「勝頼のような武士の忠義を大切にしない大将はいずれ家臣達の離反を招いて滅亡する」と勝頼の残虐非道な所業を厳しく批判したと伝えられる)

II 戦いの本章
5月18日
織田信長ら設楽原に到着すると極楽寺山に本陣を置き軍議を開いた
戦いに際し3千挺の火縄銃を用意したと伝えられている
織田・徳川連合軍は当時最強を誇った武田騎馬隊の猛攻に備えるため連吾から須長の浜田までの川路沿いに2キロにわたる馬防柵を二重三重に構築
連吾川沿いの沼田が広がる細長い狭い場所を決戦地に選択したことが勝敗を左右する鍵となった
この一帯は地元豪族“設楽氏”の支配地だったため「設楽原(したらがはら)」と呼ばれている
5月19日
医王寺の武田軍本陣にて軍議が開かれ騎馬隊には不向きな戦況に撤退を進言する重臣もいたが勝頼は「まだ命が惜しいのか」と決戦を選択
撤退を進言した馬場信房(信春)・内藤昌豊・山県昌景・土屋昌次らは信房の陣所であった大通寺山にて最後の水盃を交わす
武田軍は主力1万2千の兵を率い豊川上流の寒狭川(さむさがわ)を渡り清井田(現在の道の駅もっくる新城やや北)まで進軍 11部隊の陣容を整えた
5月21日 未明
徳川家康の重臣であった酒井忠次は織田信長の命により別働隊を率い河窪信実(武田信実/武田信玄の異母弟で親族衆)や三枝昌貞(守友)らが守る鳶ヶ巣山砦を背後から奇襲
激しい攻防戦が繰り広げられ砦を守っていた武田兵は壊滅状態で敗走を余儀なくされた
5月21日 午前
鳶ヶ巣山砦の銃声が引き金となり武田軍の猛攻がはじまる
山縣昌景率いる赤備え隊が徳川軍の大久保忠世が率いる鉄砲隊の馬防柵めがけ突進
昌景は9度にわたる突撃の末ついに鉄砲に倒れ力尽きた
5月21日 10時頃
武田騎馬隊の連続突撃はなおも続いていたが織田・徳川連合軍は当時守備であった鉄砲隊を攻撃力として活かし武田軍の前進を阻んだ
5月21日 12時頃
織田・徳川連合軍は圧倒的な数の「火縄銃」で武田軍を追い詰める
5月21日 13時頃
勝敗の帰趨(きすう)が見え武田軍が総崩れとなる
長時間の戦闘により武田軍は信玄時代から仕えていた歴戦の勇士を次々と失った
設楽原には武田軍の山縣昌景・真田信綱・真田昌輝・原昌胤・土屋昌続(昌次)・内藤昌豊・甘利信康・馬場信春(信房)らの塚が祀られている
5月21日 14時頃
武田軍が敗走を開始
激戦地の丸山砦から戦況を見守っていた馬場信春(信房)は総大将勝頼を守るため殿軍(でんぐん/後衛・しんがり)となり退却しつつ追撃を阻んだがついに織田軍塙直政の家来に討ち取られる「鬼美濃」と称された老将の最期であった
勝頼はわずかな兵に守られ北東の田峯城を目指し落ちのびて行く

III 戦いの終章
武田勝頼
およそ1万の兵を失う大損害を被った武田軍はわずかな兵を連れ甲斐に戻った
その後必死の盛り返しを図り信玄以来の宿敵であった北条氏政との間に同盟を結んで東からの脅威をとり除くなど外交を駆使して武田氏最大の領地を獲得
しかし1581年(天正9年)徳川家康により高天神城を奪い返されると勝頼は躑躅ヶ崎館の北西に新府城を築き防戦
在城わずか1ヶ月で新府城を焼き1582年(天正10年)3月11日に天目山のふもと田野で正室北条夫人・嫡男信勝と共に自刃
清和源氏の流れを組む名門甲斐武田氏は滅亡した
織田信長
三河・遠江の戦後処理を徳川家康に任せ5月25日に岐阜城へ帰還
当時最強と謳われた武田軍を破ったことで東からの脅威を激減させた信長は「天下布武」への道を着実に歩んでいった
ところが長篠・設楽原の戦いから7年後の1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変が起こり明智光秀の裏切りにより無念の最期を遂げる
皮肉にも武田家滅亡からおよそ3ヶ月後の事であった

設楽原で戦死した兵達の魂を慰める「火おんどり」

長篠・設楽原の戦いの間かんぼう山中腹の小屋久保に避難していた村人達が帰村して目にしたものは傷つき倒れそのまま永遠の眠りについた両軍の兵士達の姿でした
そこで村人達は亡くなった兵士の遺体をねんごろに弔い「信玄塚(大塚・小塚)」を築きました
しかし間もなく塚から蜂が大量に発生し村人達を苦しめました
これを武田の亡霊だと考えた村人達が戦死した兵士達の霊を慰めるために大きな松明(たいまつ)を燃やしたのが「火おんどり」のはじまりと伝えられています
毎年お盆の8月15日夜に戦没者御霊供養行儀として竹広信玄塚で行われる「火おんどり」は連綿と絶える事なく今に続いています

勝頼公みてル-
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大きいもので長さ3メートル・直径80センチ程もある大きな松明を8の字に振り回す