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武田軍の歴史

武田信虎から晴信(信玄)へ

武田家は甲斐源氏流を組む国人領主であり甲斐国守護を継承する名門ではあったものの当時の甲斐国は有力国衆との争いが絶えず信玄の父である武田信虎の時代まで国内は大変乱れていました
武田信虎は近年でこそ甲斐を平定した人物として再評価されていますが『甲陽軍鑑』によれば粗暴で傲慢であったとされ一時の感情に任せて家臣を次々と手打ちにしたとも伝えられており粛清された重臣には後に昌景が姓を名乗る「山縣氏(山県虎清)」もあったとされています

武田信虎が甲斐国を平定する頃に信虎の次男として産まれた晴信(後の信玄)でしたが兄である竹松の夭折に伴いすぐに嫡男となりました
兵法を学び武芸を磨く傍ら仏教や詩歌に造詣が深い晴信(信玄)を信虎は疎んでいたと伝えられています

1541年(天文10年)晴信(信玄)は父信虎を甲斐から追放するかたちで武田家第19代目の家督を相続しました

粗暴で絶えず戦を繰り返した信虎の時代とは異なり平和が訪れると周囲は晴信(信玄)を歓迎しましたがその思いとはうらはらに晴信(信玄)は武力による更なる領地拡大を進めていくこととなります
東に北条・西に織田・北に上杉と次第に力を強めていく強豪に囲まれた甲斐国は戦を繰り返しその力を外部に示す必要があったのです

武田軍の猛攻~信濃平定

信虎の時代は婚姻政策などの外交を駆使し上野・信濃と同盟関係を保っていたため当時対立していたのは相模国の後北条氏だけでした
しかし晴信(信玄)の代となると武力による平定へと戦略を変更し武田軍はまず信濃諏訪領へと進軍します

1542年(天文11年)諏訪氏庶流であった伊奈へ侵攻(昌景初陣はこの頃)桑原城の戦いで諏訪氏を滅ぼし諏訪領を制圧しました

1543年~1545年(天文12年~天文14年)頃になると武田軍は信濃国を次々と平定する一方で後北条氏と和睦
今川氏と後北条氏の対立を仲裁して後に「甲相駿三国同盟」を結ぶきっかけとします
今川・北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させ1547年(天文16年)小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝
しかし翌1548年(天文17年)信濃国北部の村上軍と上田原の戦いで敗れ宿老の板垣信方・甘利虎泰ら多くの将兵を失い晴信(信玄)自身も傷を負います
これを機と諏訪に進軍してきた小笠原軍は塩尻峠(勝弦峠)の戦いにて撃破すると1550年(天文19年)には小笠原領に侵攻し中信地方を武田の支配下におさめました

勢いに乗った武田軍は北信濃の村上氏が治める砥石城を攻めるも大敗(砥石崩れ)しますが翌年に真田幸隆(幸綱)の調略で落城させることに成功します

こうして晴信(信玄)は北信地方を除き信濃をほぼ平定することとなりました

甲相駿三国同盟にまつわる婚姻関係図

北条・今川との同盟にはおもに婚姻政策が摂られましたが過酷な運命に翻弄された女達もいました

武田軍VS上杉軍~川中島の戦い

砥石城落城後に越後へ逃げ込んだ村上氏や北信の豪族達の要請を受けた越後国主長尾景虎(上杉謙信)は武田軍と対峙すべく本格的な信濃出兵を開始
第一次川中島の戦いを契機に善光寺平をめぐる甲越の睨み合いがはじまります

1554年(天文23年)武田家の嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪でもある)を迎え甲駿同盟を強化 また娘を北条氏に嫁がせ甲相同盟を結ぶなど婚姻政策を中心に「甲相駿三国同盟」が成立
特に北関東において長尾景虎(上杉謙信)と抗争していた北条氏との甲相同盟は軍事同盟としても有効に機能しました

1557年(弘治3年)室町幕府将軍足利義輝により甲越和睦の御内書が下されます
受諾した長尾景虎(上杉謙信)に対し晴信(信玄)は信濃守護職を要求したため信濃守護に補任されました

1559年(永禄2年)晴信は出家し「徳栄軒信玄」と号しました

信玄は引き続き北信侵攻を続けたものの大きな戦いにはなりませんでしたが1561年(永禄4年)一連の対決で唯一大規模な合戦となる第四次川中島の戦いがはじまります
信玄の実弟である信繁をはじめ重臣である諸角虎定・足軽大将の山本勘助・三枝守直ら有力家臣を失い信玄自身も負傷する激戦となりました(昌景は旗本本隊として別働隊と合流するまで命がけで信玄を守りぬいています)

第四次合戦を契機に信濃侵攻が一段落すると以後武田軍は西上野への侵攻を開始するなど対外方針を変更
1564年(永禄7年)第五次川中島の戦いが起こるも大きな対立なく終わりその後両者が相見えることはありませんでした

川中島古戦場跡

駿河侵攻と激動の周辺諸国

川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始するも武田軍は上杉旧臣である長野業正に苦戦を強いられましたが業正の死去に伴い形成を逆転
1566年(永禄9年)に箕輪城を落とし上野西部を領国化します

その一方で1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川軍が織田軍に敗北
今川領国であった三河の松平元康(後の徳川家康)が独立するなど甲斐国周辺国々の動きが激しさを増していきます

その頃美濃の斎藤氏と対立していた信長は武田との関係改善を模索
諏訪勝頼(後の武田勝頼)は信長の養女となった信長の姪(妹の娘)を正室に迎えることとなりました

対外情勢の変化によって武田と今川の同盟関係に緊張が生じると1567年(永禄10年)に武田家嫡男義信に謀反の疑いありと幽閉ののちに粛清(自害)
義信は甲相駿三国同盟で今川義元の娘(六女)を正室に迎えており親今川派であったことも関与していると考えられています

1568年(永禄11年)武田軍は遠江国(現在の静岡県西部)三河の徳川家康と今川領分割を約束し共同で駿河へ侵攻すると薩埵峠の戦いで今川軍を敗り今川館を一時占拠しました
信玄は相模の北条氏康にも駿河侵攻の協調を持ち掛けていましたが北条氏は今川氏に味方したため甲相同盟は解消 北条氏康の嫡男氏政に嫁いでいた信玄の娘は甲斐に戻されます
そして北条氏は越後上杉氏と越相同盟を結び武田氏に圧力を加えます

結局徳川家康とは遠江領有を巡り対立し家康は1569年(永禄12年)に今川氏と和睦して駿河侵攻から離脱することとなります

武田軍の猛攻~織田・徳川との対立~西上作戦へ
織田信長像

武田・織田は当初婚姻関係を中心とした友好関係を結んでいたものの織田と同盟を結んでいた徳川とは三河・遠江をめぐり対立し次第に織田家との亀裂が生じていきます

1568年(永禄11年)織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たすもやがて両者は対立
義昭は信長を滅ぼすべく信玄や他大名に信長討伐の御内書を送りました
信玄も信長の勢力拡大を危惧しており1568年(永禄11年)2月武田軍はまず遠江に侵攻し山崎の砦(静岡県)を制圧すると大規模に改築して小山城と名付けそこを足掛かりに5月までに三河の足助城・田峯城・野田城・二連木城(愛知県)と次々と城を落としましたが信玄が吐血したため一度甲斐へ戻ることとなります

1571年(元亀2年)織田信長による比叡山焼き討ちに際し信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難して比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図りました(2年後に信玄が亡くなったため実現せず)信玄は翌1572年(元亀3年)権僧正という高位の僧位を与えられています

そして織田と同盟を結んでいた徳川家康を討つべく武田軍は大規模な遠江・三河侵攻を行います
1572年(元亀3年)足利義昭による信長討伐令に応じて信玄は甲斐を出立すると武田本隊は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かいました

青崩峠から遠江に攻め入った武田本隊は信長と交戦中であった浅井・朝倉両氏に信長への対抗を要請し徳川方の諸城を1日で落とします
一方山県昌景率いる支隊も柿本城・井平城(井平小屋城)を次々と落とし信玄本隊と合流します
これに対して怒った信長は信玄と完全に縁を切りますが浅井・朝倉両氏や石山本願寺の一向宗徒と対峙していたため家康にはおよそ三千の兵を送るに留まります
武田軍は一言坂の戦いで徳川軍を退かせ続いて遠江の要衝である二俣城を陥落させました(二俣城の戦い)

劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せましたが浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣すると遠江三方ヶ原において信玄と対峙し三方ヶ原の戦いが勃発
結果として家康は武田軍の恐ろしさを思い知り敗走することとなります

徳川家康像

その後も武田軍は西上作戦を続け1573年(元亀4年)1月には三河に侵攻し2月には野田城を落とすと(野田城の戦い)3月には織田信長の叔母が城主をつとめる岩村城を秋山虎繁率いる軍勢が包囲し虎繁と城主おつやの方が結婚するという条件で降伏させています

しかし信玄は野田城を落とした直後から度々吐血するなど持病が悪化
長篠城において療養していたものの近習・一門衆の合議によって4月初旬には遂に甲斐への撤退が決定しかしその途上で信玄は息絶えました

『甲陽軍鑑』によれば信玄の遺言は「自身の死を3年の間は秘匿し遺骸を諏訪湖に沈める事(重臣の協議により実行されず)」とされ重臣の山縣昌景や馬場信春・内藤昌秀らに後事を託し昌景に対しては「源四郎 明日は瀬田(滋賀県南部)に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残し西上作戦の続行を指示したとされています

武田の当主を継いだ勝頼は信玄の遺言を守り葬儀を行わずに死を秘匿
表向きは信玄が隠居し当初諏訪家を継いでいた四男勝頼が家督を相続したと発表されました

1575年(天正3年)には山県昌景が使者となり甲斐源氏とのゆかりが深い菩提寺高野山成慶院に日牌(石碑)を建立(武田家御日牌帳)長篠の戦い前月には勝頼によって三周忌の仏事が行われその際に葬儀が行われたとされています(天正玄公仏事法語)

信玄亡き後の武田軍~長篠の戦い

信玄亡き後次第に力を伸ばしていった信長は将軍であった足利義昭を都から河内国(大阪府)へと追放すると対抗勢力であった越前国や近江国も次々と落とし甲斐にとって大きな脅威となっていきます
これに対抗すべく勝頼は勢力拡大を目指して諸外国への遠征を開始
1574年(天正2年)2月に東美濃の織田領に侵攻すると尾張・三河・遠江・駿河攻略の拠点となる明知城を落としました
続いて6月には遠江国の徳川領に侵入しかつて信玄が大軍を持っても落とせなかった高天神城へ攻め入って城将である小笠原信興(長忠)を降伏させ東遠江をほぼ平定します

長篠城
天然の要害「長篠城」

しかし翌1575年(天正3年)家康方に寝返っていた奥平貞能・貞昌親子討伐のため約1万5千の兵を率い三河へと侵入し奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始
奥平勢の抵抗により攻略に時間を要しているうちに織田・徳川連合軍およそ3万8千が設楽ヶ原(長篠)へ到着します
武田軍が得意とする山岳地の野戦ではなく単純な兵力差が影響する平地の攻城戦に近い状況となり信玄以来の重臣たちが撤退を進言するも勝頼は織田・徳川との決戦を選択
数で劣る武田軍は総崩れとなり重臣の大半を失いながら勝頼は敗走を余儀なくされます

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
「長篠合戦図屏風」
中心付近に馬防柵に突撃する山縣隊(黒地に白の桔梗紋)が描かれている
武田家の滅亡とその後の評価

武田家は勝頼の代で滅亡しましたがその遺臣は徳川氏によって保護されました
昌景の率いた赤備え隊は家康の家臣井伊直政に引き継がれるほか昌景の娘婿である横田尹松(ただとし)など徳川幕府に仕えて活躍の場を広げる者もいました

江戸期になり評価を落とした豊臣秀吉とは反対に武田信玄は家康がその兵法や統治法を参考にしていたことから「家康公を苦しめ人間として成長させた武神」として高く評価されました
幕府も信玄人気を容認し甲州流軍学を学ぶことが武士の教養とされ武田家の戦略・戦術や軍法・刑法なども記した「甲陽軍鑑」は広く読まれていくこととなります

武田信玄と言えば軍配を持ち赤法衣と諏訪法性(すわほっしょう)の兜に代表される法師武者姿
これは江戸時代に「甲陽軍鑑」が流行したことで役者絵や武者絵などがたくさん描かれ定着したイメージです